増井真也日記

略歴
免許登録番号 1級建築士 建設大臣登録 第290771号
1997年早稲田大学理工学建築学科卒業
2001年戸田建設株式会社退社
2001年ますいいリビングカンパニー主宰

「日本の住宅はどうしてこんなに同じものばかりなのだろう。」というのが私が設計を行うようになったきっかけでした。住宅はそれぞれの家族が自分たちのこだわりに合わせて自由に作り上げていくものだと思います。他の工業製品と違い工場での生産が出来ないということからも、本来は個別のデザインが許されて良いはずなのです。
しかし、現実には建築条件のない土地の取得の困難さという問題や、かつてのずさんな工事による工務店の衰退にともなう工業化住宅の発展によって画一的な住宅ばかりが作られるようになりました。
このような中で、今一度住宅の設計を一つ一つ丁寧に行い、そして工務店として作り上げる。その活動こそが個性あふれる豊かな住宅の生産につながると思っています。そして、そのこだわりを実現させるデザインが豊かな街を作り上げていくでしょう。
私は川口の町で生まれ、川口の町で育ちました。住宅を作るという活動を中心としてさまざまなデザインを街の中にちりばめ、この街をもっと魅力的に変化させ、魅力ある街づくりに貢献したいと考えています。

2010年
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最新の日記 7月

2010/7/30

東京都にある練馬の家では地下室の型枠工事が順調に進んでいる。極小の土地に建つ都心部の住宅の場合は容積率緩和の規定が適応される地下室を上手に利用することで、必要な面積が確保できる場合が多い。しかしながら常に地下水との戦いを強いられる地下室では、その土地の地下水位がどれくらいなのか、水はけはよいのか悪いのかなどの条件をしっかりと見極めながら、そもそも地下室を作ることが可能なのかの判断をすることが大切だ。もちろん防水の技術も進んでいるので、ある程度の期間であれば保証つきで水を食い止めることは可能である。しかしながら30年、50年という長期スパンで物を考えると10年保証の防水では不十分だ。練馬区のこの土地のように非常に良い条件が整わない限り安易に手をだすべきではない。


地下工事の状況

夕方、RDRギャラリーの主催でアーティストと建築家の交流会。この会の開催趣旨を少々述べたい。

「もっと自由に家を作る」

建築の現場ではさまざまなカタログが存在する。洗面器やキッチンなどの水周り器具、照明器具や建具、建具の金物などなど、私達は通常それらのカタログの中からイメージする建築の要素としてふさわしいものを選び出し、コストを調整したうえで建築の現場に取り入れる。この一見普通に見える流れ、実は工業化社会の産物以外の何者でもない。

大量生産大量消費を目指した時代、大量生産の仕組みに取り込まれることの出来る商品だけがカタログに掲載される資格を持ち、それ以外は排除される。人々の生活を豊かにすること、つまり国民全員が冷蔵庫や洗濯機を持つことを夢見ていた時代の中では、オリジナリティーのある手作りの洗濯機などというものが存在出来るはずはないのである。

しかしながら今の時代はどうであろうか。冷蔵庫などの電気製品に一品生産のデザインを求めることは無いにしても、建築という現場生産しか許されない世界においては、オリジナルのデザインを求めること、作り手の心のこもった物を持ちたいと思うことといった需要は大変高まっているように思える。現にますいいリビングカンパニーの家造りの現場においては、大工さんが造る作り付け家具や造作キッチン、左官屋さんの手仕事の塗り壁などが非常に高く評価されているし、鉄の造作を利用した階段や手摺りなども頻繁に取り入れられているのだ。

埼玉県所沢の家のリフォームのときに造られた鉄の手摺り

今の家造りにおいて先に述べたような職人さんの現場における造作品を造るとき、私達は図面でそれを表現する。図面でイメージする形を描き、コストの調整を行い、詳細図面で角度のどの細部にいたるまでの寸法を標記して製作を依頼するという流れだ。建築の現場には多くの職人さんが存在する。腕の良い職人さんは私達の描いた図面を正確に読み取り、強度などの検討をして上で一つのプロダクトとして作り上げる力を持つ。上の写真にあるような手摺り、このような特注品も現場にしっかりと取り付けることが出来るように作り上げてくれるのである。

この物づくりの過程における自由をもっと高めることは出来ないだろうか。

それが「人の生活にまつわるプロダクトを作る作家とのコラボレーション」を進める理由である。

今進めている東京都調布市にある集合住宅併用住宅の現場では、集合住宅部分に通じる通路の門扉の製作をロートアイアンの作家である中沢知枝氏に依頼している。中沢氏はMASUII・RDRギャラリーの紹介である。この門の製作の過程にカタログは存在しない。中沢さんの描くスケッチやこれまで作ったものをみて、話し合いの中からある形が生まれていく。まるでモリスのパターンのような有機的な形状は、図面にされることなく作家さんの脳の中を通り抜け、作家さん自身による手作業を経て、形になるのである。
図面化することが困難なイメージを形にする自由がそこにはあるのだ。

http://www.whollys.com/profile/index.html
(中沢さんのプロフィール)

今作っている門扉、巾が2メートル近くあって、価格は30万円ほどだ。この値段は正直安い。ロートアイアンの既製品の門扉よりも安い。それはなぜかというと、masuiiの家造りにも共通することだが、作り手以外に無駄な経費が一切かからないということだろう。営業マンも社長さんも自社ビルも何にも無い。
全てのコストは材料費と作家さんのアイデアそして創作活動にのみかけられるのである。

この可能性をさらに広げるために、「作家と建築家の交流会」を開催した。これは継続的に開催し、参加した作家さんの情報はHPに掲載するつもりである。自由な家造りの可能性をさらに広げるために5年間のギャラリー活動によって作られたネットワークを生かしたいと考えている

2010/7/27

朝10時、東京都東久留米市のOさん宅にて打ち合わせ。建築面積いっぱいに建てられた住宅の駐車場部分に猫のための家を建てたいという変わった相談を受けた。建築面積いっぱいに建てられた住宅地に家を建てたいという相談なので、一瞬はどうしてよいかの戸惑いを感じたわけだが、よくよく考えてみれば猫の家、建築である必要があるのだろうかの疑問もある。例えば、例えばの話だが馬車を駐車場に置いたとする。馬車の窓から猫の顔、馬車の窓からはしごが付いてて2階の窓までのぼれたり、の楽しい風景、まるで宮崎駿さんのワールドのようなものを想像してみるとどうだろうか。うーん、これはなかなか面白そうだ。

この手の相談というのはえてして断られてしまうか、若しくは心無い人によって違法行為としての建築が作られてしまうかのどちらかに落ち着くことが多い。しかしながら、例えば馬車、電車、これは建築とはいえない。トレーラーハウスを駐車場に置いたら建築だろうか?猫の家であればこのような解決法もあるだろう。そもそも、人一人が暮らす程度の箱であれば建築である必要などは無いのではないか。この問題についてはもう少し詳しく調べたらお話しすることとしたい。

2010/7/26

朝8時過ぎより朝礼。

埼玉県に建てている毛呂山の家ではいよいよ天井のセルフビルド塗装を行うまでに進行した。塗装しているのはワトコというオイルである。このワトコという塗料はオスモと一緒で木材の表面に塗膜を作らず、木材の持つ木肌を失わせない塗料であり、かつほとんどの成分が自然素材という優れもの。価格もオスモよりだいぶ安価であるので、選定しやすい。

セルフビルドで天井板の塗装を行う場合には、このように先に塗装を行うことが重要である。もし後から塗装工事を行うとなると脚立や足場上での危険作業となるので、写真のようなのどかな風景とは程遠いものとなってしまうし、そもそも子供が出来るはずなどないものとなってしまう。自分の家は自分で作るといっても、命がけでやりたい人はいない。安全に楽しみながら出来る方法を考えて、工事の中に自然に取り入れてあげることが重要だ。

2010/7/21

現在工事中の川口市の家がほぼ完成を迎えようとしている。この住宅は断熱仕様が非常に高く、次世代省エネ基準の4を取っているのであるが、ここまで気温が高くなりmasuiiの事務所がまったくエアコンが聞かない状態に陥ってしまうと、少少うらやましくもある。8月には完成の予定なので、最後までしっかりと進めていきたい。

13時、現在取り組んでいる保育園のコンペ打ち合わせ。簡易プロポーザルの提出書類について森建築設計研究所の森氏、CFRD江崎氏、当社の佐野と一緒に話し合いをした。約1時間ほどの話し合いの後終了。提出物の精度について、また方向性についての森氏の意見は非常に参考になった。やはりこの世界で数十年の経験を持つ方の意見は、非常に的を得ている。まだまだ学ぶことがあるな。

終了後は、設計室にて引き続き作業。深夜2時過ぎまで。

2010/7/19

朝8時30分より朝礼。ますいいリビングカンパニーは祭日がお休みではないので、いつもどおりの月曜日を迎えたが、世間はやはり3連休ということで業者さんたちの電話もつながりにくいようだ。

朝礼終了後、埼玉県川島町に建設中の現場のガス工事についての打ち合わせ。最近では珍しいプロパンガスの現場ということで少少打ち合わせを行った。

続いて東京都品川の家の見積もり打ち合わせ。


川島町の家の基礎工事

次に東京都足立区の家の構造についての打ち合わせ。こちらはこのままではだいぶ予算がオーバーしてしまうであろうということで、計画の小さな見直しを検討した。そもそも2300万円で鉄骨造の大空間住宅を作ろうというこのプロジェクトは、はじめから予算が苦しいことは目に見えていた。予算が苦しい中でやるから無駄がそぎ落とされた面白い建築が出来る、という考えでがんばっているので別にどうという事はない。ただただ、満足いただける建築を目指すのみである。

16時過ぎより、川口市に建築予定のOさんの家の打ち合わせ。事前に私の妻の意見などを取り入れ、暮らしやすさについてのスタディーを重ねただけあって今回のプレゼン内容はなかなかよくまとまっている。特に共働きの中で洗濯等の家事をいかに効率よく行っていくかなどについての工夫は、われながらさすが主婦である自分の妻の知恵を借りただけのことはあると感心してしまった。やはりこういう内容については、女性のほうが細かいところまで気がつくんだろうな。

2010/7/17

朝9時過ぎ、東京都三鷹市の家の打ち合わせ。今回は展開図を用いてのプレゼンを行ったのだが、回遊性のあるプランの特徴を示すために外周部をぐるりと全て描いた展開図を作成してみた。下が、計画の概要を示す模型である。鉄筋コンクリート造2階建てのこの建物は2階にリビングダイニングキッチンを配置し、大きなテラスからスロープを経て屋上に上がることが出来るようになっている。1階2階供にぐるぐると家の中をまわることができて、なんとも面白い建築である。中心には中庭があり、子ども達の遊ぶスペースとして、植栽を育てるスペースとして、存在感を示している。何よりも建築のプロポーションが良い。

15時過ぎ、埼玉県川口市にて借地の上に建つ既存住宅を建て替えたいとの相談。借地に建つ住宅を建て替える場合には、当然のことながら地主さんからの承諾を取る必要があるのだが、この承諾を取るには数百万円の更新料を収めなければならないとなる場合が多く、今回もそのようなケースであった。こうなると社長の出番ということで、急遽打ち合わせを社長に交代。ますいいリビングカンパニーは10年ほど前に数人で不動産業者を営む社長(私の母)の元でスタートした建築部門であるので、不動産についての仕事は社長の領域となっている。私が中学生のころ突然不動産屋さんを始めたのであるから、不動産屋さんとしての経験はすでに20年以上ということ。改めて考えてみると時のたつのは早いものである。

夕方より、息子の通う川口市立幸町小学校の防災キャンプに参加。阪神淡路大震災以降毎年行われているこの行事では100名ほどの生徒が校庭にテントを張ってとまるという経験を通して、防災の精神を学ぶというもの。夕方には恒例のキャンプファイヤーを行い、都市部に建つ狭い学校では考えられないほど豪勢な火柱を上げる。防災キャンプをやって大火災?なんてことになったら大変なので、町の消防団にも出動してもらい、校庭の前には消防車まで待機するという大掛かりなイベントである。

先日、総務省の推進する地域協働体なる概念の講演を受けたのだが、これはバブル崩壊以降に生まれた考え方で、行政サービスのうち民間でも出来る部分をNPOなどの民間に担ってもらうという考え方で生まれたものである。地域というのは連合町会の区域をさしていて、たいていの場合は学区と重なることが多いという。私がPTAを勤める学区では、すでに私が参加させていただいたころには強力な協働体が完成しており、先ほどの事業なども大勢の町会関係者の方々が逆に学校関係者をリードしていただいているような状況である。そんな恵まれた地域でも最近では商店街の商店の減少、マンションの増加によりPTAに参加してくれる型の人数が減ったそうだ。今後の対策は親父の会だななどと考えつつ、朝を迎える。

夜1時ごろから眠さに負けてテントに入ったのだが、テントの網窓からはとても涼しい風が入り込んできた。地面の冷たさも心地よかった。マンションの谷間の校庭で、地面を冷たさを感じながら夜風の中で眠る不思議さを感じながら、夜明けを迎えた。朝起きるとあたりはまだ薄っすらと夜の闇を残している。全体の景色の色が紫色のフィルターを通しているかのような幻想的な雰囲気が、時間とともに次第にはっきりとしたいつもの風景に変わってくる。
6時ごろまではとても過ごしやすかったのだが、完全にいつもの風景に戻ったころには暑い真夏の日差しが顔をだし始めた。都会の中でも自然は感じることが出来るらしい。それも夜明け前から完全に夜が明けるまでの数時間だけ、街に完全な静寂が訪れ、全てのものが動かない景色のように、時間が止まってしまったようになるほんの数時間だけ感じることが出来る自然があるようだ。
朝8時ごろ家に戻ると、エアコンが付いていた。私は思わずエアコンを消して、朝の涼しい空気を家の中に取り込んだ。すでに先ほど感じた清涼感は無く、30分ほどして再びエアコンをつけてしまった。
無性に山に行きたくなった。数日間山の中で暮らしてみたい、そんな気持ちがふつふつとわいてきた。

2010/7/15

朝3時過起床。近くのファミリーマートで朝ごはんを買い、事務所に行く。まだあたりに人影は無く、新聞配達のバイクの音だけが街の中をこだまする。3時30分ごろ事務所について読書。今取り組んでいる保育園に関係する本を2冊ほど読んだ。保育園という特別な機能を持ってはいても、子ども達が健康に安全に暮らすことが出来る場として考えると、普段取り組んでいる住宅建築とそれほどの差はないように思える。こういった本を読めば読むほどにそんな気持ちが湧き出てくる。これまで10年ほど住宅に取り組んできた実績を生かすことが出来る、そんな手ごたえを感じた。

10時ごろまで事務所にて雑務。さすがに少少眠くなってきたので11時ごろ帰宅。1時間ほど仮眠を取り、13時事務所に戻った。

2010/7/14

昼過ぎより、コンペのプロジェクトチーム打ち合わせ。今回のプロジェクトチームは早稲田大学芸術学校で非常勤講師を務める江崎氏と、川口市における設計事務所の中心的存在であった元 森建築設計研究所(6月に事務所解散)所長の森氏に参加していただいている。森氏のは保育園の経験の無い私達のサポートを設計アドバイザーという立場でお願いし、また江崎氏には女性の立場から魅力的な保育園のデザインを行っていただく予定だ。

夕方、池袋のジュンク堂に。今取り組んでいる保育園についての本を購入する。それにしても池袋は人が多い。明治通りを交差する信号機には次から次へと人が送り込まれてきて、みなどこかへと急ぎ足で消えていく。普段暮らし埼玉県の川口市が特段自然に恵まれているとは思わないけれど、それでも都内よりはましだな。20時ごろ事務所に戻る。

2010/7/13

午前中は事務所にて雑務。

昼過ぎより現在取り組んでいる保育園のコンペの事業主が経営している幼稚園の見学。この幼稚園は今現在は幼稚園の中に一部保育園が混在している。ちょうど2時ごろというのは、保育園に通う子ども達がお昼寝をしている時間で、教室では数人の先生方に見守られながら多くの子ども達がすやすやと眠っていた。改めて見学してみるとこれまで子どもの通う幼稚園に行ってもまったく見えてこなかった部分が見えてくる。配膳の動線、掃除道具の収納場所、非難経路、靴の管理、バス乗り場の構造、一つ一つが子ども達の使い勝手と、先生方の管理のしやすさを考え抜いて作りこまれている様子にはとても感心した。

東京都練馬区の家の現場では地下工事が順調に進んでいる。最近の雨の多さではあるが、この現場は割りと高台に位置しているので水がたまることは一切無く、ゲリラ豪雨の心配もいらない。やはり地下室は高台に限る。

写真に写っているのはコンクリートを打設する前の断熱材の施工の様子である。30mmのスタイロフォームですっぽりと外側からくるんでしまうことで外断熱を完成している。地面の中に発泡スチロールの穴、なんとも不思議な光景だ。

ちなみに今日の様子は下の写真である。すでに鉄筋工事も終わり、耐圧盤のコンクリート工事を待つのみとなっている。それにしてもコンクリートを打つ前の鉄筋だらけの現場の様子はなんともグロテスクなものだ。この無数の鉄筋がコンクリートと一体となり求められる強度を示すようになるのだが、コンクリートと鉄筋の温度変化は非常に近く、同じような動き方をするので非常に相性が良いというわけである。もともとコンクリートにはそれほどの引っ張り強度が期待できない。限界の引っ張り応力を与えられたコンクリートは徐々にひび割れしたあと崩壊するわけだが、鉄筋を入れることでその強度を鉄筋が受け持つこととなるわけだ。


2010/7/10

午前中、埼玉県にある北本の家の打ち合わせ。第1回目のプレゼンを受けてのクライアントの要望を取り込んだ案を2案提示した。このプランは1階にリビングと水周り、そして多目的ホールを持ち、2階に個室を二つ配置している。どちらも構成は変わらないが、その中でも吹き抜けを設けたものと設けていないものを作成した。

コスト的な制限がある中でクライアントの要望をどのように実現していくかが今後の大きな課題になる。現在のプランの場合、1階と2階のボリュームに大きな差異があるのでどうしてもコスト的に合理的でない計画になってしまうようだ。コストをもう少し絞るためにはまず1階と2階の必要面積の配分をやり直してみる必要があるだろう。階層ごとの面積配分が変わることで、プランの構成も大きく変わるので、そのバリエーションを見てみる必要がある。その中で最も暮らしやすいものを選定し、建築構造的にシンプルな形を見出すことで予算は軽く100万円は変わってしまうことが予想される。

限られたコストをどのように配分するかを検討するとき、まずはじめにこの構造的シンプルさを目指すことは第1条件となる。ここで節約することの出来たコストを仕上げや設備にかけることができれば、バランスの良い建築計画が作り上げられることとなるであろう。厳しい中での計画となるため少少時間がかかりそうだが、丁寧に進めていきたいと思う。

東京都にある調布の集合住宅併用住居の現場では鉄骨の屋根下地が取り付きいよいよ3階の内装工事に入るところまで進行してきた。この一室大空間的な3階はオーナー住居として計画されており、自由な間仕切り家具を造作することで個室の定義がなされる予定だ。それにしてもこの天井高さの高い空間のボリュームは圧感だ。このまま仕上げないで住んでも楽しそうだなとの変な思いまで浮かんできてしまう。

2010/7/7

朝9時、東京都足立区に計画中の住宅の打ち合わせ。初めての打ち合わせということで今回はスタッフ5名によるプレゼンを行った。5人の異なる提案を並べてみると敷地のとらえ方の違い、そこから来るボリュームの配置の手法の違いが明確で面白い。また、アイデアの特色も様々で一つの建築の可能性のようなものを感じた。

14時、早稲田大学建築学科にて「建築の保存と再生」講演会に参加。講師は青山学院大学教授の鈴木博之氏で、オーソドックスな建築の保存工事の事例についてのレクチャーを受けた。今早稲田大学では、大学院生と大学4年生を対象にして「保存と再生」のコースの設立を検討している。その第1回目の取り組みとして上野の黒田記念館を題材とした課題を設置しているということで、学生による興味深いプレゼンテーションを拝見した。

18時過ぎ、埼玉県川口市の住宅打ち合わせ。今回は30分の1の模型を提示し、建築の概要についての説明を行った。スケールをあげてだいぶ実際の建築に近い形でのプレゼントなったので、理解も進んだようだ。この建築はワンフロア―9坪ほどのプランを3層に重ねたもので、中心にらせん階段を配置している。それぞれのフロアーは必要最低限の間仕切りで仕切られ、これからの家族構成の変化に柔軟に対応できるようになっている。ご夫婦ともに学校の教師をされているということで、インナーバルコニーなどの生活のしやすさにも工夫をしている。細かく作りこむのではないけれど、丁寧な設計をされている、そんな建築にしていきたい。

〜2010/7/8
川口市内の保育施設コンペ打ち合わせ。保育施設という経験のない分野への挑戦ということで先ずはチーム作りから始めることに。隣の戸田市内で設計をしている江崎氏、川口市内で設計事務所を営んでいた森氏に協力を依頼することにした。非常に経験豊かな方々のご協力をいただけるということで、万全の態勢で臨めることとなった。
夕方、江崎氏、森氏を交えての初顔合わせ。今後の打ち合わせスケジュールなどを決めて今日のところは解散。

2010/7/9
朝11時過ぎ、森氏の計らいでメダカファミリーなる障害者の施設見学。この施設、障害を持つ方々が集い、パン工房やせっけん工房などを運営していて、川口駅の商店街にはアンテナショップまで持つ施設である。作られたきっかけは、障害者の親となった数人のお母さんたちの活動ということで、そこに地域に方々や行政等が協力する形で次第に成長してきたということであった。今ではかなり多くの知的障害者の方々がそこで仕事をする喜びを味わいながら生活し、実家を出ての生活をすることができるようなグループホームまで作られている。また、障害を持つ幼児をあづけることのできる、保育園のような施設までつくれられており、まさに地域のための活動が事業化している好事例となっていた。

終了後、川口市役所にてヒヤリング。各プロジェクトの敷地条件調査など。

夕方、埼玉県北本の住宅打ち合わせ準備。明日の打ち合わせに向けての模型やプランの確認など。今回は2回目のプラン提出ということで、クライアントからのご要望に基づくプランを2案プレゼンすることにした。

2010/6/30〜2010/7/6 北方領土紀行文

■参加のいきさつ
7月1日から5日にかけて平成22年度北方四島交流事業に参加した。ひょんなことからこの事業に参加することになったのだが、先ずはそのいきさつをお話したい。
職業柄街づくりには興味があったので、地域で活動する青年会議所なる街づくり団体に所属している。この団体が、北方領土連絡協議会(通称:北連協)という北方領土問題を扱う団体の一員であり、私の所属する会がその担当であるということが渡航の機会を得ることとなった大きな理由である。


国後島

■概要
今回私が参加した北方四島交流事業(通称:ビザなし交流事業)というのは、内閣府の下部組織である北方領土対策協議会(通称:北対協)が主体となって、年に4回ほど開催されているもののうちの一つである。(北対協主体のもののほかにも多くの訪問事業がある。)そのうちの1回が北連協を主な構成員として行われるわけであるが、その北連協からの参加者のうち数名は私達の団体のメンバーとなることになっている。そして今回、私もそのうちの一人としてこの事業に参加することとなった。

今回の目的地である国後島の古釜布までは、根室港から船で4時間ほどだ。夜中のうちに根室港を出港し、古釜布沖にて投錨し朝を待つと、はしけと呼ばれる底の浅い運搬船が迎えに来てくれ、団員はそれに移乗する。10分ほどで港まで移動し、ようやく上陸できるわけだが、島での自由行動が認められているわけではない。港には数人の出迎え客と、あらかじめ賃金を払われて雇われているドライバーがおり、各々の車とともに一日の事業の進行役として参加してくれるようになっている。他の事業も合わせれば、かなりの訪問事業を行っているということなので、島側の出迎えも半ば仕事のようになっているのだろう。

1日目に入域した国後島での主な行動は、行政訪問、各種施設の見学、海の漂流物調査、そして玉入れやファッションショー、夕食交流会などのレクリエーション事業である。それでは国後島での様子を少し詳しくお話しよう。

■国後島行動録
現地時間(時差2時間)午前7時、朝の海は昨日よりも静かで波は小さい。濃い霧が海面全体を覆っていて、視界不良。昼食をとってしばらくすると、ロシアのはしけが迎えに来てくれた。上陸後先ずは日ロ友好の家(通称:ムネオハウス)に向かった。この建築が二億円の工事費を投じて作られたと聞くと何とも信じられないというような安っぽい建物であったが、玄関前で出迎えてくれたパンを持つ少女の美しさはそれとは対照的であった。予想以上に多くの建築が建ち並んでいるものの、デザインに関して特筆すべき点は何もない。


通称:ムネオハウス


必要に迫られて、作られた結果というだけのものである。建築の形態はまるで工場が倉庫のようであり、せいぜい青やら黄色やらの原色系外壁塗装の色が、明るいイメージを作っているというところだろう。古い住宅らしき建物の外壁はすべて板張りである。さらに古いものの外壁にはあき缶の蓋らしきものがたくさん張り付いているが、これは外壁がはがれるのを防ぐためのものらしい。貧しい離島における、小さな工夫が私の眼にはとても悲しげに見えた。島の道はいわゆる砂利道だ。アスファルト舗装というものはどこにも存在しない。道路には大小の穴があちこちにあいていて、車が走るとガタガタと揺れる。ゆえに自然とトヨタランドクルーザーや三菱パジェロといったオフロードカーが主体であり、私が目にした限り日本からの中古車が大変好まれているようであった。


古い住宅


ひと時の休息の後、それぞれがあらかじめ振り分けられた車に乗り込み見学・調査のツアーに出かけた。私の班はまず初めに建設中のメンデレーエフ空港を見学した。この空港、クリル地区の経済政策によって作られているということであったが、予算が途中でショートしてしまい今は工事がストップしているということであった。ここら辺がいかにもロシアらしいところであると感じるが、ふと日本の様子を思い出してみると今の日本にも工事がストップしたダムやら高速道路は地方風景の風物詩としてどこでも見受けられるような状況になっている。国の政策の変化によって翻弄される力なき地方という構図は、世界各国共通のことなのであろう。

続いて島の反対側にある材木岩と呼ばれる岩の近くにある海岸に向けて漂流物調査のために車を走らせた。途中美しい風景が広がる中に、夏の間暮らすための別荘であるダーチャと呼ばれるロシア版別荘が見られた。ロシア人はここで野菜を作ったりの自給自足的生活を送り、ゆったりと自然の中で時を刻むということである。今の日本人には信じられないような生活であるが、この表層の姿だけを見ていると人間の暮らし理想的形態がここにあるような気がしてならない。日本のIターン生活者の心境も近いのかもしれないが、人が暮らすことの根源が文明的進歩の中で失われていないということについてのみ見習う点があるであろう。しかしながら、現地の人の心の満足がそこにあるかどうかは別の問題である。生活の貧しさ、気候の厳しさ、体験してみないとわからない現実も必ずある。


ロシアのダーチャ


新しい住宅

材木岩につくと、「北の海動物センター」理事長の小城先生の指導、小島あずさ氏のレクチャーを経て、海岸の漂流物調査のためのゴミ拾いが行われた。ちなみに小城先生は北大の名誉教授であり、小島氏は環境保護団体JEAN代表として93年に今の日本JCの人間力大賞に当たる賞を受賞している方である。どちらも環境問題のプロだ。調査には現地の小学生たち十数人も一緒に参加してくれたので、あらかじめ区切られた40m×20mの範囲内のゴミを拾うのにそれほどの時間はかからなかった。拾ったゴミを種類ごとに分別すると、日本、韓国、ロシアの様々なゴミが海に流れ着いていることが分かる。この島ではこのゴミの調査に参加した子供たちによるゴミ拾いのクラブができたそうである。分別の習慣すらないこの島で、そのようなクラブができたことは大変大きな成果であるし、ゴミ拾いの中での交流もこの事業の目的に非常に適していると考えられる。この事業のためにわざわざ参加していただいた先生方には大きな敬意を払いたい。


漂流ごみ調査


作業を終え、一行は再び日露友好の家へ向かった。すぐ近くの行政府前にある広場では別働隊による玉入れが多くの地元の子供たちとともに行われていた。続いてすぐ近くのホールにて、ファッションショーが執り行われた。十代〜十代の若い女性たちに日本から持ち込んだ衣装を着せ化粧を施してみると、信じられないような美貌を顕わにしてくれる。このイベントは地元の方々にも大変な人気の様で会場に入りきらないほどの参加者が集まるという盛況ぶりだ。日本からはこのイベントのために二人のファッション関係者が同行している。綿密な事前打ち合わせと準備、当日の短い時間での設営を経て、このような素晴らしいイベントを開催するにいたった担当者の苦労は察するに難くない。参加した少女たち、それを見守る大人たちのとてもうれしそうな笑顔が非常に印象的であった。

終了後、再び日露友好の家に戻って夕食交流会をとり行った。日露友好の家にあるホールの中に所狭しと日本人が座り、そこに若干のロシア人が混ざっている。料理はポテトや魚のフライといったロシアらしい料理で、これまた定番のウォッカが用意されている。意外と口に合う味付けであったが、どうやら北方領土の調味料は19年間の交流会を経てだいぶ日本のものを取り入れているということであった。しょうゆや日本製の塩コショウさらにタバスコまで利用しているというから、食文化の入り乱れ具合は日本に近いようだ。残念だったのは、この手の交流会にありがちなことだが、来賓席以外にロシア人がほとんど座っていないこと。私の周りも日本人だけだったので、とりあえず空腹を満たすことに専念し時間が過ぎるのを待った。最後にはしけに乗って船に移乗、択捉島に12時間かけて走り出した。

■概要2
二日目と三日目は択捉島に入域する予定である。先ほども使ったがこの入域という言葉、なぜ入国と言わないかは、ここはあくまで日本の領土であるという意思の表示のためである。ちなみに出るときは出域という。ここで北方領土に関する若干の情報をお伝えしたい。もともと日露間に国境が定められたのは1855年のことである。日露通好条約によってロシア側はウルップ島以北、日本側は択捉島以南と定められた。北方領土の総面積は5036平方キロメートルほどである。大きいほうから言うと、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島という順番だ。ここに旧ソ連が上陸してきたのは1945年8月28日のこと。初めの上陸地点は択捉島の留別村というところである。終戦当時この北方領土には3124世帯、17291人の日本人が住んでいた。数年間の共同生活を経て、1947年7月から1948年10月にかけて合計7回にわたる強制送還が行われ、島民は樺太の真岡を経て函館に送られることとなった。今回のビザなし交流事業は1992年より実施されている。この事業は領土問題解決までの間、日本人と四島在住ロシア人との、領土問題解決に向けた好ましい環境の整備を目的として行われているものである。近年ロシア政府はクリル社会経済発展計画に着手し、この地域の環境整備に大変力を入れているということである。
択捉島1日目の主な工程は行政関係者の訪問、紗那の墓参、温泉の視察、ファッションショーだ。二日目は「ギドロストロイ社」の水産加工場視察、ホームビジット、商店視察である。国後島での事業と重なるものもあるのでここでは手短に説明をしたい。

■択捉島行動録
1日目の朝まず初めに向かったのは芸術学校と呼ばれる塾のような施設である。ここの3階ホールにて行政関係者との式典が執り行われた。ちなみにこの学校は希望制で絵画や彫刻など様々な芸術教育を受けることのできる施設ということで壁には戦勝65周年の記念する子供たちの描いた絵が飾られていた。徴兵制のあるこの国では軍というものは非常に身近な存在であり、壁にかかっている絵にも戦車やら戦闘機、兵士の姿が勇敢な誇りとともに描かれていた。ちなみにこの手の絵の中で敵対国として描かれているのは日本ではなくドイツである。ソビエトの☆とドイツの卍がどの絵にも必ず入っているし、卍をつけた兵士は必ず敗北のイメージで描かれている。


子供たちの絵

続いて紗那の墓地に移動。ここは旧日本人墓地とロシア人の墓地があるのだがお寺のような施設があるわけでもなく管理をする人もいないということで、草が一面に生えていてどこが墓地だかわからないような状況になってしまっている。参加者全員で草刈り鎌を持ち、数台のエンジン式草刈り機を投入して草刈りをすること約30分、なんとか墓地らしい風景に戻すことができて作業を終了した。最後にそれぞれ線香を供えて手を合わせ、墓参を終了した。


国後の墓参

次は有萌近郊の海岸にあるまだ建設されたばかりの温泉施設にてバーベキューを行った。現地に着くとすでに数人の男性がダイナミックな牛肉の串刺しを焼いている。大きなテントの中では、数人の女性たちがその焼いた肉を皿に盛り、食事の準備をしてくれていた。各々食料を手に好きなところに座って食事をとりゆっくりとした時間を過ごす。ちなみにこの温泉施設は近年建設されたばかりで、現地の人は水着を着て男女混浴で入るものであるという説明があった。参加者もどうぞということであったので、皆下着を着けたまま温泉を楽しんでいた。以前屋久島に行ったときに、海中温泉なる施設に入ったことがあった。ここは完全な露天風呂で男女混浴である。日本人だから水着は着けないが、ちょうど同じような施設である。

最後に再び芸術学校前に戻り、2棟だけ残っている旧日本家屋を見学し、玉入れ、ファッションショーと続いた。詳細は昨日と同様である。
二日目はギドロストロイ社なる政府のテコ入れによってできた水産加工会社を見学した。ここだけ別世界であると感じさせるような近代的な設備を備える加工工場や、孵化工場を見学したが、広大な敷地には事業の成功をイメージさせる豊かな造園が施されており、今回見ることはできなかったが体育館などのレクリエーション施設も充実しているということであった。このギドロストロイ社の目の前にある港だけは、北方領土とは信じられないような開発が施されており、大きな漁船も着岸できるということであった。一つの企業によって地域経済が完全に支えられているというこの状況は、一部資本主義化したとはいえまだまだ大きな政府の力を持ち続けているロシア特有の姿であろう。このような一社独占の形態を続けている限りにおいて、短期的な成功と、繁栄の中で生まれる汚職を防ぐことはできないであろうし、また競争のない世界の中でこれ以上の成長もないであろう。


ギドロストロイ社


一通り見学した後、数人のグループごとにあらかじめ決められた家庭を訪問するホームビジットを行った。家に着くとすでに豪華な料理が用意されており、私たちはそれぞれの家庭の中で3時間の時をご家族と共に過ごすこととなる。参加者は日本から手土産を持ってきており、それをネタに会話がほとんど通じない中で何とかコミュニケーションをとる。途中通訳さんが来てくれるので、自己紹介などを行った。ウォッカを飲みながら上機嫌で談笑していると3時間などあっという間に過ぎてしまう。それぞれの国の文化、家族のこと等様々な情報交換を行うことができた。別れを惜しんで車に乗り、商店視察を挟んで夕食交流会に参加した。私はというとホームビジットで泥酔した参加者の介抱をしていたので庭先で休んでいたのだが、参加者は皆お酒も入っていたせいか大変な盛り上がりであった。


ホームビジット


商店の棚


交流会を終えてすべての事業を終了した私たちは、再びはしけに乗って船に戻った。12時間の船旅を経て国後島を経由し、根室に着いたのが7月5日の12時過ぎのことである。

■考察
今回の交流事業は先にも書いたが、領土問題解決までの間、日本人と四島在住ロシア人との、領土問題解決に向けた好ましい環境の整備を目的として行われているものである。話によるとこの交流事業が開催され始めたころは、お互いの意見をぶつけ合う対話集会が開かれたり、どんな人間が来るのかと興味を持ったロシア人たちが大勢港に駆けつけて来たりの状態だったが、19年間も事業を続けてくると、特に島側のマンネリ化が進んでいるようで、港に来る人はまばらで、車を運転してくれるドライバーも、ホームビジットを受け入れてくれる家庭もすべて謝礼金を受け取った方々であるということだ。そのような中で人を集めるためにこれまで記載したようなエンターテイメント性のある漂流物の共同調査やファッションショーなどが企画されているわけであるが、まるでファッションショーのために渡航しているかのような雰囲気に包まれている様子を感じてしまうと、事業の趣旨と照らし合わせても参加者として違和感を感じざるを得ない。

日本での領土問題における返還運動で一番の問題とは無関心である。この問題に関する風化は進んでいく一方であり、署名運動などの成果も年々落ち込んでいる。自分に直接関係ないことに興味を持つことのない国民が多い現代社会において、無関心な国民に北方領土問題を意識の中にとどめることさえ困難であろう。外務省の弱腰外交、強硬な方針を打ち出すことができない政治、確かにどちらも問題であるが、しかしながら本当の問題はそのような問題に関心を持つことのできない国民にある。どちらも国民の世論なくして行うことはできない。
このような問題を解決するために、北対協等の団体が行っている交流事業によってこれまで延7000人程の人々が北方領土にわたっている。何回も渡航する事務局員も算定しての人数であるので、およそ5000名の人々が渡航を経験しているということだ。そしてこの事業に参加した人々から全国各地への情報発信をしてもらい、国民の世論喚起の一つの起爆点になることが、この事業の目的である国民世論の喚起につながる。また、両国間の国民感情の親日化と親露化という目的も進んでいくこととなる。お互いを理解し、交流を深めることで感情を融和し、返還に向かって一歩歩み出すことが期待されている。

しかしながらこの交流事業が事業目的をどこまで達成することができているのかは疑問である。5000人の経験者がどこまで情報発信しているか、親露的感情が生まれること、親日的感情が生まれることで、島の返還にどの程度寄与することができるかという点についてもいかがであろうか。この点、参加者の中でも疑問の声が聞かれていた。友好を目的とするということに照らし合わせれば、協働作業での漂着ごみの調査も玉入れもファッションショーも大変意義深いものである。しかしながらそれはあくまで友好を目的とした場合の話だ。この友好を目的とする事業をこれほどたくさん、ルーティーンワーク的に行うこと自体に意味があるのかの疑問に対して目を向ける必要があるのではないだろうか。

この手の事業は長期間継続することでその事業の目的自体の鮮度が落ち、ピント外れとなってしまうことがある。企業などの営利団体の場合、この鮮度の低下がすぐに業績として表れるので、代表者の交代や会社の買収、合併、はたまた倒産といった結果を出さざるを得ない。

常に新しい目標を設定し、その鮮度を保つことができなければ企業自体の維持をすることができない。しかし、本事業を行う北対協のような法人の場合その成果を数値的に判断することは非常に困難である。この事業によってどれだけの世論喚起が進んだか、島民と国民の友好が進んだことでどれだけ返還を求める国民の意識醸成が進んだか、それを数値で示すことは不可能だ。だからこそ組織や事業の変革も起きにくいし、問題意識を示すことも難しいのだと思う。しかし、戦後65年を経てこの国の姿も大きく変わろうとしている現在、この領土返還運動の在り方も見つめ直す時期が来ているのではないだろうか。私が経験したのはその領土返還運動のほんの一部ではあるが、しかしそのほんの一部にも大きな問題があるように感じた。その一番の問題、それは恐らく「事業自体の目的設定の鮮度」なのではないかと思う。



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